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中川 和之@ふりふり大魔人 噴火前から有珠山に引き寄せられていた私 |
日本地震学会と日本火山学会が合同で昨年から始めた地震・火山子どもサマースクールを、今夏に有珠山で実施しようと内定したのは昨年11月だった。3月27日午後、第1回目の実行委員会が、北大の有珠火山観測所の会議室で開かれ、北大から実行委員長の宇井忠英教授、岡田弘教授、地震学会学校教育委員長の桑原央治都立大島高校教諭ら6人が集まっていた。昨年、全体の進行役を務めた私も行きたかったが、限られた予算の中では遠距離参加は難しく、打ち合わせ結果が実行委員会のスタッフmlに流れるのを待っていた。 28日の朝、出勤前にアクセスしたところ、事務局役の道立理科教育センターの方からの打ち合わせ結果がmlに入っており、昭和新山登山も含め2日間に渡っての充実したプログラム案ができていた。ただ、そのメールを追いかけるように、宇井さんから有感と思われる火山性地震が起き始めたとの報告と共に、「万一本番にでもなったらこれまでの準備
実は、そのメールで「伊達市在住の富田さんのページ」のURLを、スタッフに紹介していたのだった。 さらに、情報収集をwebでやっているうちに、地元自治体が同じプロバイダー(ニッテツ北海道制御システム)で情報発信しているため、アクセス集中していることが分かり、ミラー計画を29日の午後3時過ぎに複数のmlで提案。30日午後にはサーバー資源の見通しも付き、関係先に打診を始めた。そこで、佐藤@室蘭市教委さんが情報教育センターでもミラーする計画があることを知り、31日の噴火直前には佐藤さんの開いたmlに加入しつつ、ミラー計画を進め、1日の早朝に容量数百メガ、回線 200Mbps KDD直結のサーバーに、伊達市、虻田町、壮瞥町のミラーサイトが構築され、ミラー班のmlも1日午後4時には作られた。有珠山ネットのミラー班の原型である。 その段階では、「これで一仕事。あとはぼちぼち」と思っていたのだが、これは怒濤の有珠山ネット生活の始まりに過ぎなかった その一つは、冨田さんとの出会いだった。既に、mlは佐藤さんのところから、村松さんの東北大に移管されていた4月1日夜。避難者名簿が
うすこいの始まりは、避難する子どもたちに何かできないかとの議論の中で、9日に村松さんが「鯉のぼりは可能かどうかわかりませんが、小さな鯉のぼりはどうでしょうか」と書かれたことが始まりだった。その段階では、自分が関わるとは考えていなかったが、あっという間にうすこいml上でインターネットでこいのぼりを送ろうという企画に練り上げられていく中で、「所属するボーイスカウトで地域の子どもたちにゲームラリーで楽しんでもらおう(魂胆はリクルートね(^_^;))という西宮25団の「団まつり」で、うすこいをやりたいけど人手が・・」というメールを投げたところ、ゆんさんが同じ県内とは言え2時間以上はかかる山崎町から、またもう一人奈良から大学生が手伝ってくれるっていう手が上がり、うすこいで最初のイベントを実施してしまった。 ゆんさんとは、99年10月31日に取材させていただいた、山崎小学校で実施されたネットデイ(http://member.nifty.ne.jp/n-kaz/genkou/netday.html 参照)で一緒だったのも、また人のつながりを感じた。「うすこいin西宮」には、い、83人の子どもたちが参加してくれ、それぞれに有珠山のふもとの子どもたちのことをそれぞれに思い起こしてくれながら、鯉のぼりの絵を描いてくれた。 地震学会、ボーイスカウト、ネットデイと3拍子揃ってしまった。これまでのいろんなmlで知り合った人たちも、有珠山ネットにたくさん参加していた。もう、そこまで来たら、しょうがない。震災5年で社内の出版物に書いた原稿料が、安くてもまとまってそこそこあったこともあり、小遣いを足してゴールデンウイーク真っ最中の有珠のふもとに行くことにした。 うすこいin西胆振で道入りする時の目的は、別にもあった。火山活動も、決して楽観視はできない状況ではあったが、落ち着いてきたこともあって、何とか子どもサマースクールを実現できないかと、宇井さんを口説くことだった。 (1)雇用の場 という「仮設温泉街構想」(末尾参照)という私案を、さまざまな人に提示し、地元からのアイデアとして打ち出してもらう根回しをしたかった。この私案は、有珠山ネットのmlでのやりとりや、以前からの考え方を元に、厚生省の関係者とディスカッションする中で浮かんだものだった。神戸の災害救援ボランティアとも議論してとりあえずペーパーにまとめたが、何人かに打診してみて感触は悪くなかった。 5月2日にゆんさんと一緒に道入り。援農に向かったゆんさんと分かれて、道庁や道社協、北大などを回り、3日には伊達霞が関の関係者や、虻田町長とも面会し、私案を伝えた。長崎町長も、意図するところは汲んでくれたと思った。島原のボランティアにも、実現したら雲仙温泉から支援のお湯を運んでこいと言って「しゃーないなあ(^_^;)」的な返事までもらったのだが、結局これは実現に至らなかった。一方、3日午後には、地震学会の別のメンバーと一緒に、宇井さんを訪れ、変則的な形ながら子どもサマースクールを8月26,27日の日程で、壮瞥・伊達と、虻田を対象に2日間に分けて実施しようという方向で合意ができ、岡田@北大さんも快諾してくれた。 4日、5日は、主目的のうすこいin西胆振に参加した わらわらと、巣窟が人でうまっていった。下見、実施ともに体育館とかではない小規模避難所だったので、阪神大震災などで見てきた避難所とはだいぶ様子が異なっている。ファミリアーな雰囲気すらあった。阪神でも大規模な避難所は運営が大変だったと聞いているし、効率は悪いかも知れないが、今後の避難所のあり方を考える参考になった。(残念ながら、その後の避難所集約の過程で大規模化してしまったようだが)。 うすこいin西胆振は、スカウトリーダーの先輩である冨田さんとのプロジェクトということで、調子こいて制服で活動させてもらった。出発前に兵庫連盟事務局に行った時に、胆振地区へのちょっとしたおみやげも預かっていた。冨田さんと、地区委員長には、手塚治虫のフェニックス(阪神大震災の復興計画のイメージキャラクター)が刺繍されたネッカチーフを手渡すこともできた。 4泊5日で、うち3泊が伊達巣窟で寝袋。最後の夜はアイクで寝させてもらい、朝食までいただいてしまった。いつか、またゆっくりとファーマーズbのお客さんとして行かせていただこうと思っている。そういえば、送ってもらった母の日の花束は実家の玄関を飾っている。 その後、「仮設温泉街構想」がだめならと、阪神大震災で兵庫県が実施した生活再建支援プログラムの策定などに威力を発揮した「被災者復興支援会議」のような、地元被災者の意見を聞いて、行政の政策作りにつなぐための民間支援組織ができないかと、山口@北大さん、宇井さん、松田@札幌国際大さんに呼びかけてもらい、神戸から被災者復興支援会議の元メンバーらと共に「有珠山復興支援現地フォーラム」
残念ながら、8月12日のブープロは、地元のボーイスカウトの舎営と日程が重なったため参加できなかった。スカウト指導者の一人として、面倒を見ている子どもたちのためにブープロに参加できないことも、きっと冨田さん(ボーイスカウト北海道連盟胆振地区野営行事委員長殿)は分かってくれたのだろうと、勝手に思っている。 8月26−27日の、地震・火山子どもサマースクール「有珠山ウオッチング」には、有珠山ネットTopix担当の青野先生を始め、見学の学校教員を含めて約120人の参加を得て、充実した行事が実現した。 振り返ってみれば、有珠山ネットであれこれ発言してきたが、冨田さんがいみじくも指摘したように「あんたのいうことは何一つ実現してないんだよ」というのが、本当のところかも知れない。これからも、こりずに続けていこうと思っているが、有珠山、三宅島雄山、愛知県水害、鳥取西部地震の災害責めは、正直、そろそろ終わりにして欲しい。有珠の前のトルコ、台湾から、1年以上、同じような日々を送っているような気がする。途中でやりっぱなしのまま放置してあることが多々ある。 4月6日に秋山さんや後藤さんらが、落ち着いたら有珠の温泉でオフ会をと提案された。ゆっくりした気持ちで、のんびりと温泉に入って酒を酌み交わし、宿題を片づけるためのリフレッシュをする機会がいずれの日にか実現できたらいいなと願っているが、地球は許してくれるのだろうか。
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