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岩佐義人 両親は避難民 |
実家の裏山が噴火した!! よりによって国道の真横が噴火したときは驚いた。帰省の際、洞爺湖に行くときにいつも通る道の、あそこが噴火したということは、両親の家とは、2キロしか離れていない!!
3月31日、両親は長万部町の福祉センターに避難した。両親は身の回りのもの以外、ほとんど何も持ち出していなかった。聞けば保険証や預金通帳すら持っていない。現金は5万円ほど持ってきただけだという。
カネとモノは送ったが、心配が消えたわけではない。父も母も高齢なのである。避難生活で体調を崩しはしないだろうか。軽度の障害をもつ父は、避難所で生活して行けるのだろうか。 母の体調がすぐれない理由は、父の存在だった。父は毎晩1〜2時間おきに起き出して身体に付けた器具の交換をしなければならない。父を起こし、器具の交換をする部屋を確保し、交換の手伝いをして食事の面倒をみるのは母である。ベッドさえあれば器具交換の必要はないのだが、混乱する避難所では個人の都合が優先されるはずもなかった。 情報源としてだけでなく 有珠山が噴火する直前に、私は「有珠山噴火情報市民版」というホームページを発見した。ホームページは異様な迫力に満ちていた。そこには、新聞やテレビ、ラジオでは決して入手できない、地元に密着した情報があった。 怒り、告発、報告、提案、議論、ゴミ(!?)、さまざまな情報を読んだとき、私は、自分の不純な目的に気が付いた。有珠山ネットの目的は「情報支援」にある。一方、私の目的は「情報入手」である。メーリングリストへの登録をもって有珠山ネットに参加したとするならば、私は正反対のベクトルを持った参加者ということになる。被災地から(だけではないが)発信される情報を、いかに虻田町出身者とはいえ、遠く離れた安全な場所から利用するだけの自分。 反省した。反省したが、利用価値の高い情報を捨てるのは惜しいので、退会手続きは取らなかった。 結局、両親は仮設住宅の抽選には洩れた。結局、実家のある虻田町高砂地区の避難指示が解除されたのは、5月24日のことだった。 20年前なら、故郷の噴火災害に対して偽悪的な態度を取っただろう。10年前でも有珠山ネットに参加する精神的な余裕は持てなかったと思われる。その意味ではタイミングのよい噴火だったと言えるのかもしれない。 有珠山ネット隊長の冨田さんは、たびたび「噴火してよかった」という言葉を使う。これは地元に住む者だからこそ言える言葉であって、噴火災害の当事者ではない者が軽軽にうなずいてはいけないと思うのだが、しかし、2000年有珠山噴火は、私の故郷に対する意識を変えた。そのことは、まぎれもない事実である。 (2000年10月12日) |