「うすゆめ〜山に願いを☆彡」背景説明(一般用)

うすゆめ〜山に願いを☆彡
《有珠山ネット・七夕プロジェクト》
開始にあたって
 1990年11月27日に噴火した雲仙普賢岳は,翌91年5月20日に溶岩ドームを形成したことが確認され,火砕流も観測された。そして,6月3日,避難指示地域に大規模な火砕流が発生,地元住民をはじめ,消防・警察関係者,火山学者などを含む43人の方がなくなった。今年もまたその季節がやってくる。最初の噴火から7ヶ月後のことである。
 6月3日という日付を覚えているだろうか。
 全国紙の縮刷版を見ると,この年の4月・5月における雲仙普賢岳関係の記事の扱いはさほど大きくなく,3月にはほとんど記事がない。ひるがえって,1977年8月にはじまった有珠山の前回の噴火の際,泥流によって2名の死者と1名の行方不明者(洞爺湖温泉小2年の男の子であった)がでたのは,翌年78年の10月24日。最初の噴火のあと,一番長い人で約70日の避難所生活であったが,それから1年以上たったこの泥流発生直後,また避難指示が出されたのである。
 いったい今は,噴火から50日を過ぎた時なのだろうか,それとも噴火
の前,なのだろうか。
 いや,その両方である,というのが,火山災害というものの問題の難しさを示している。じわじわと締め付けてくるストレス。日に10センチずつ隆起する西山山麓。想定される場所から火砕流が発生すれば,数分で到達するといわれ,現在も夜間通行禁止措置がとられている北海道経済の大動脈国道37号。
現状を再確認しておこう。5月21日午後4時現在,虻田町民1万人の7割の住民に対して避難指示が出されており,そのうち約3千人が周辺8市町村の24個所の避難所に避難している(これに対して壮瞥町・伊達市では,当初出された避難勧告・指示はほぼすべて解除された)。
仮設住宅への入居は5月上旬に第一次分については終わっている一方,避難所統合のため再度の引っ越しを準備しているところもある。一時帰宅すら一度もかなえられていない地区があり,すでに14世帯が被災者生活再建支援法によって全壊と認定されている。住んでいたアパートの場所にぽっかりとあく火口。
 こどもたちはどうか。
 虻田高校は隣接する豊浦町にある豊浦高校のグラウンドに仮設校舎を建設中であり,工事は今週末までかかる。現在は各学年にわかれて授業。虻田中学校・虻田小学校,洞爺湖温泉小学校・洞爺湖温泉中学校に原籍のある生徒は,依然として,あるいは避難所から,あるいは遠く道内36市町村の避難先から,異例の通学を続けている。とうやこ幼稚園は,ようやく5月20日に仮園舎で入園式を行った。中学校の修学旅行は延期されたままであり,仲良しの友だちと携帯電話で話すことだけしかできない子どもも多い。
 この今,被災地から遠く離れたものに何ができるだろうか。「有珠山被災地にインターネットで"こいのぼり"を送ろう!」というプロジェクトを終わって,有珠山ネットでは議論が始まった。その出発点は,このプロジェクトを通して,私たちが聞くことのできた子どもの<声>にあった。
 こいのぼりのうろこに,避難所にいるある子どもはこう書いた。
「噴火よ止まれ!」。
 九州のある女の子は,それに呼応するかのように
「7月のねがいにふんかをしないようにねとかいてね」
と書いていた。
大人たちは,懸命に観測を続ける火山学者と,日々奔走する行政担当者を前に,これほど率直に表現することをためらう。しかし,生活の基盤である家を離れ,テレビのチャンネルさえ自由に選べない場所で,およそ<先の見通し>を持つことを許されない暮らしの中で,しかし大人たちも同じ思いを抱いたまま,動揺や怒りや落胆を繰り返す。だからこそ,
 子どもたちのこの願いをそのまま<聞く>ことこそ,未来という言葉をもう一度手にするために,最も緊急のことではないか。被災地からの子どもの声を多くの人に届ける仕組みを支えること,これは有珠山ネットのなしうることではないか。
 七夕プロジェクトはこうして始まった。その詳細はまだほとんど決まっていないが,被災地の子どもたちが,希望を語り始めてくれれば,聞こうとしている人はきっと全国にたくさんいると信じて,具体的な作業に着手しはじめたである。
以上


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