村松淳司@テキヤ@おやびん@きょ〜と〜

「ほんの4ヶ月ほど前」〜うすゆめファイナルレポート〜

 室蘭教育センターの佐藤さんと出会って、4ヶ月半となった。
 出会って、と言っても、まだ、声と電子メールでしかお会いしていない。だが、意識の中ではすでに旧知の友という感じである。
 プロジェクトBOOでお会いできることを楽しみにしていたが、うすこいin西胆振でお会い損ねた二の舞であった。どうも一生お会いできないような気もしている。

 有珠山が噴火しそうだ、という情報を聞いたのは、山形のメーリングリスト、POYからであり、同時に冨田さんのページを知った。
 3月29日夜のことだったと思う。
 東北災害関係メーリングリストを主宰し、災害情報ネットワークのメーリングリストに属していた私は、ただちに冨田さんのページから得た、有珠山災害対策メーリングリストに加入したいと思った。
 当初は気軽に考えていて、有珠山の情報を少しでも東北へ流せればいいかな、と思っていた。
 有珠山災害対策メーリングリストには、なぜか初回の登録に失敗して、佐藤さんへ個人メールを書いた。これが、佐藤さんへの最初のメールであった。
 多忙をきわめる彼に個人メールを書くというのは、後で考えると大変問題のあることだったと思うが、当時はそれを慮ることをしなかった。
 まず、これが現地を見ていない、という反省につながった。

 ともあれ、無事に有珠山災害対策メーリングリストに登録した。
 冨田さんが現地情報をがんがん投稿してくる。冨田さんのページにどんどんあがってくる。
 私は、後方支援という位置付けを自分に課し、現地以外からくる種々の情報を有珠山災害対策メーリングリストに投稿し、あるいは有珠山災害対策メーリングリストに流れたメールを他の災害対策関係のメーリングリストに流すことにした。

 噴火した。

 有珠山災害対策メーリングリストには非常に多くの新規登録者が訪れた。
 当時、このメーリングリストは、ログの残らないシステムで運用され、かつ、登録・脱退だけのメールが流れて、肝心なメールが目立たないような感じだった。生来のおせっかいの虫が騒ぎ出し、自分のところで代行できないか、と考え始めた。
 当初は、自分のところ、というと何かカッコ悪い感じがして、他に移したほうがいい、とか、発言していた。また、佐藤さんの多忙を感じ、現地情報の大切さを感じたとき、室蘭一箇所にネットワークを集中するのは、どうかな、と思っていた。
 当時、伊達、壮瞥、虻田の各市町村のホームページを室蘭のサーバへの移行が実行中だったせいもあった。
 考えてみれば、有珠山災害対策メーリングリストのサーバは別に被災地にある必要はない。ま、そんなこんなで、うちのサーバに移行した。

 4月上旬。
 避難所の子供たちは、無事子供の日を迎えることができるのか、大変心配になった。

 4人の子供をもつ、私は自分で言うのもなんだが、子供好きである。
 自分の子供ができる前、独身のときも、近所の子供とよく遊んだ。
 ま、精神年齢が幼いせいもあるが、子供の屈託のない、笑顔が大好きなのだ。子供は同時に、ずる賢く、卑怯なことをする。これもまた、面白い。ずる賢いといっても、せいぜい一ひねりくらいのずるさなのだ。これもまた、好きだ。また、子供の感性にはたびたび驚かされることがおおく、勉強になる。

 とにかく、子供たちがどう過ごしているのか、それだけが実は心配だった。
 大人は自分の生活は自分で守るべきであり、甘えは許されない。
 実を言うと、はなっから、いい大人に義援金以外で援助しようなどという気持ちはこれっぽちもなかった。死者、怪我人が出て大変な状況の阪神淡路大震災とは違い、予想された噴火を事前にキャッチして、全員が事前に無事なところに退避したのだ。そこから先は、その地に住まいし大人が自分で活路を見出すべきと思った。
 もちろん、金銭的物質的な援助は必要だろうが、ネットワークを使って援助する、「後方支援」には、まるで関係のないことである。

 子供の日。彼らはどう過ごすのか、4月に入ったとき、それが心配だった。
 有珠山災害対策メーリングリストに、こいのぼりはどうするんだろうか、と、まあ、今振り返ってみると、のんきなメールを流してしまった。でも、同じような心配をする人もいて、どうしようか、ということになる。
 避難所の数は多く、こいのぼりを集めるにも限度があるし、他の援助物資の仕分けで大変な状況の現地に、こいのぼりを送り込む、というのは、さすがにできない。知恵を絞ったところ、廣池さんのヒントから、ネットワークを使って、サーバにこいのぼりの絵を集めたら、どうか、ということを思いつく。
 これが、うすこいプロジェクトのきっかけとなった。

 多くの賛同者を得て、4月中旬から、うすこいプロジェクトは始まった。佐々木さん、森さん、ゆんさん、こたつねこさん、などなど…5000をこす、こいのぼりが、ネットワークの中を泳いだのだ。
 これは壮観であった。
 同時に、日本も捨てたものではないな、とか、誠に陳腐な感想をもらしてしまった。

     

 一方で、うすこいプロジェクトは単なる自己満足の結晶ではなかったか、という反省もしていた。
 実際に現地の子供たちが見ることができなければ意味がないじゃないか、と。
 うすこいin西胆振で訪れてみると、数は多くはないものの、子供たちが、こいのぼりを見てくれていた。正直、ほっとした。

 後で考え直してみると、こいのぼりを送った側の子供たちや大人にも意味があったことに気づいた。遠くだから、お手伝いできない、という言葉が多いが、そうではない。
 うすこいプロジェクトのこいのぼりは、それを実証しているではないか。
 もうそんな、言葉は使わせないぞ、と思った。

 うすこいin西胆振ではじめて被災地に足を踏み入れた。冨田さんがいた。
 浅川さんがきた。浅川さんにはいろいろと苦労をかけてしまった。サーバのことやネットワークのこと、あるいは、ときに重要な示唆をもらった。
 でも、初めて会う気がしなかった。他にも多くの仲間たちがいた。後藤さん、市川さん、松本さん、あらじゅんさん、こだまさん、はるかさん、etc.

 そして、5月5日、私はこどもに帰った。自分の娘たちとともに。

 たくさんのこいのぼりの中に、一晩中泣けたことばがあった。島原からだった。

山がふんかして、どろどろなようがんが町にきてたいへんでしたね
しまばらは、まゆ山があったのでよかったのに、ほかの町はたいへんでしたね。
7月のねがいにふんかをしないようにねとかいてね

「7がつのねがいごとに、うすざんふんか、おさまってね、とかいてね」
 確かこういうようなことばだった。子供のすごさはここなのだ。豊かな発想と思いもしない言動なのだ。

 そして、うすゆめプロジェクトが始まる。
 これは最初から、困難が予想された。有珠山が過去のものになっていく頃のプロジェクトなのだ。だから設定としては、現地から全国へ、というベクトルを考えた。構想が伝えづらく、賛同者に私の考えをうまく説明できなかったのが残念だったが、それは私の力不足だった。
 とにかくプロジェクトはスタートする。

 当初は、現地の子供たちが願い事をすることに固執した。現地へ負担をかけても、現地の子供たちからの生の声をネットワークに乗せ、こいのぼりのお返しを全国に向けて発信してもらうと同時に、とかく大人の声に代表されそうな、現地の様子を子供たちの願い事ということで発信してほしかったのだ。
 これは無理があったので、断念せざるを得なかった。もともと現地へ負担をかけるというのがよくなかったのだ。

 願い事、飾り、コンサートと中身は多かったが、うすゆめの本当の目的は、現地復興への後方支援だった。
 つまり、うすゆめを通じて、有珠山を忘れるな、観光客よ洞爺湖へ向かえ、金を使え、そして、現地の商人は自分で銭を稼げ、と。

 うすゆめプロジェクトは、子供たちの願い事と、飾りの2つの募集をしたが、うすこいほどの盛り上がりはなかった。
 有珠山が過去のものになったせいもあるが、ベクトルが現地から全国なのか、全国から現地なのか、定まらなかったのが失敗の原因だった。私が現地発信にこだわりすぎたのかもしれぬ。

 PMFコンサートは、工藤さんただ一人の尽力で開催にこぎつけた感じだった。
 無理をしたような気がした。
 復興への後方支援がこれほど面倒で大変なものとは、全く考えの浅い私はわからなかったのだ。うすこいではうまくいったのに、うすゆめでは、チームワークが乱れた。
 リーダーの私の責任であった。やはり責任の範囲を超えてしまったのだ。
 ともあれ、数多くの人のサポートで、狭山台(大妻女子大、干川さん)、平塚(永田さんほか)、安城(天野さんほか)、仙台(清野さん、佐伯さん、鈴木さんほか)、そして、虻田で、ファイナルが行われ、無事プロジェクトは終了した。

 さかのぼること、うすこいプロジェクトが終わって、うすゆめプロジェクトが立ち上がる頃、私は自分の責任の範囲を実感していた。
 正直に言って、うすゆめプロジェクトは自分の範囲をはるかに超えていた。
 このプロジェクトを終える頃に、一回けじめをつけたいと思っていた。

 自分の責任の範囲とは、自分で言ったことを自分で解決することができることをさす。
 復興に関して私は自分で責任をとれるようなことは、もはやできない、と思っていた。
 したがって、今後、有珠山災害対策メーリングリストで積極的に発言することもないだろうと、思った。

 おりしも、メーリングリストは終了し、新たに、有珠山メーリングリストが始まった。この変化には私は実は当惑していた。
 冨田さんも、ある種の変化と有珠山ネットの終わりを意識していたのだろう。8月12日のうすゆめファイナルで、第1期を終了すると言い出した。
 私もそう考えていたし、どちらかというと、3月30日以前に帰るのが、自然だと思っていた。

 確かに、有珠山ネットは全く新しい災害救援のスタイルを作った、といえる。が、三宅島災害対策メーリングリストを見ていると、スタイルの一般化はまだまだ、という感がある。
 冨田さんという、非常にあくのつよく、ぐいぐいと引っ張るような、リーダーがいなければ、現地からの発信と取りまとめを同時にすることはできないだろう。
 情報発信者とリーダーは別でもいいが、2人とも現地にいないと、齟齬が生じるだろう。

 ともあれ、ほんの4ヶ月である。
 何が変わったのか。何も変わっていないようにも見えるし、大きく変わったようにも感じる。有珠山ネットで肝に銘じて覚えさせられたのは、甘えの徹底的な排除であり、その結果、自分の責任の範囲を知らされることとなる。
 いやそれ以前に、災害は他人事ではない、ということがあった。
 災害は自然災害ばかりとは限らない。人的なもの、災害とはわからないようなものもある。
 とにかく、被災者は援助の手を待っているだけの存在であってはならない。自分でなんとかしないと生きていけない。
 さらに、災害を最大の好機と考え、常に前向きの姿勢で、災害とともにすることが必要なのだろう。致命的なダメージを次の瞬間に最大のチャンスと捕らえる、攻守の交代こそ、今後の災害復興のポイントであろうと、思う。
 まさに、ピンチのあとにチャンスあり。

 20年度、また再会しようと、冨田さんは言った。
 20年後、有珠は噴火するのだろうか。それよりも前に、有珠以外の者が災害に遭うことであろう。そのときに、現地から情報を発信し、さらに強いリーダーシップがとれるかどうか、それができれば、有珠山ネット第二章の始まりだろうと、思う。
 有珠山ネットの一般化はこうして完成するのであろう。
 ともあれ、私の中では、有珠山災害対策の文字はとりあえず、引出しの中にしまうことにしよう。
 40を超えるとそう無理を続けることもできない。決して有珠山ネットへの訣別のことばではない。私のけじめの付け方なのだ。

 うすこい、から、うすゆめ。
 うすに恋して焦がれる、うすこいプロジェクトから、うすへ明日の夢をはせる、うすゆめプロジェクトへ。ほんの4ヶ月の出来事だった。
 でも、後藤さんが名づけた、猫の手隊はずいぶん大きくなったもんだ。うすこいin西胆振のとき、伊達の避難所を見て「帰ろうよ」とおびえた少女は、うすゆめファイナルでは、虻田の子供たちと、仲良く遊んでいたのだ。

別々に行動する猫の手隊の二人。
5月は、いっつも姉妹で行動していたのに。8月はこのとおり。

 短冊は煙りとなって空に上がっていった。子供たちの心のケアはこれからも大事にしていかねばならない。

 もちろん、運命を受け入れさせながら。

村松淳司%腰をさすりながら... 2000/08/15