辰巳@○○○○

そしてなにより自分の為に

1977年8月7日

父に連れられて行った長万部の浜。
噴火湾を隔てた30km先、有珠山のてっぺんから高く高く噴煙が上がっていた。
それが私と有珠山との最初の出会いだった様に記憶している。

その後数年間、噴火湾一帯の浜は軽石に覆われた。
翌年の泥流で尊い人命が失われた。

それから23年。
私は7年半に渡る首都圏暮らしの後、北海道に戻っていた。

「有珠山の火山性地震が活発化、噴火の恐れ。」

網膜に焼きついた幼き日の視覚。
高く高く立ち上る噴煙。

2000年3月29日夕刻、私は虻田町の噴火記念公園駐車場に居た。
まるで泥炭地の上を歩いている様な感覚。
マグマの動きを肌で感じていた。
本能的な恐怖があった。
そして避難指示が発令された。

4月4日 洞爺村から望む

しかし、その後の私自身を含めた動きを知る由も無かった。


同年3月31日、西山西麓より噴火。虻田より長万部、豊浦方面への避難開始。

丁度その頃、とあるメーリングリストで避難所の様子を見てきて欲しい、との依頼があった。

依頼主は冨田きよむ氏、有珠山ネット代表である。

避難所の画像、また消防本部長より頂いた避難所収容人数のリストを入力して送った。
避難所の中までは撮れなかった。そこまでの無神経さは持ち合わせて居なかった。

その旨申し添えた所、賛同の返事が来た。
その時、この人は「ええかっこしい」では決してないのだと、真に噴火で困っている人の為に何かしようとしているのだと確信した。

それから自分と有珠山ネットの関わりが始まった。

私はうすこい、うすゆめ等の「有珠山ネット」としての表だったイベントには残念ながら顔を出していない。

しかし今では却ってよかったのではないかと思っている。
常に冨田氏、後藤氏、工藤@豊浦氏等々の苦労が目の前にあったからだ。

一見大きな組織に見える有珠山ネット。
しかし実際の所地元に近いごく少数の人間に負担を強いている状況。

大きな事を言う人間、正論を吐く人間は沢山居る。
しかし地道に、確実に動く人間は極少数に限られる。
私は後者を選ぶ。

マスをかくのは結構だ。
しかしそれによって助かる人間がどの程度居るのかを考えるくらいの事は、この重い脳味噌を引きずって生まれた者ならばすぐに気づく事ではあると思うが。

今回は第1期終了に寄せての寄稿ではあるが、私の中では何も終わっていないし始まってもいない。

そこに突きつけられた現実があるのみである。
今後も冨田氏より依頼があれば自分のできる範囲で動くであろう。

明日は我が身。これだけは忘れるわけには行かないのだ。
南西沖地震の時には実家にも少なからず被害が出た。数週間の操業停止を余儀なくされたのである。もちろん今回の数ヶ月のスパンには及ぶべくも無いが。
しかし今でも家の基礎は歪んだままである。

云い方は悪いが、この事を再確認させてくれた今回の噴火である。

環太平洋火山帯の上に住む限り避けては通れない道なのだ。

最後に。
もし私が被災したら、村八分になってもまず間仕切りの要求をしよう。
その後何らかの形で被災するであろう人の為に。
そしてなにより自分の為に。



この駄文を最後まで読んでくれた暇人な貴方に感謝します。
乱文乱筆酩酊失礼。

平成拾弐年葉月 辰巳治典