うたかたの

なかやま 三毛子(中山 教@千歳市)


 「有珠山噴火しそうだって。上空を飛んでる時に噴火したら大変だよね」
「飛行ルート変更してるから大丈夫」
3月末の夕食時の何気ない会話が、私の意識を有珠山に向けさせました。
千歳産の主人は、23年前の噴火を知っています。
洞爺湖畔でキャンプ中だったらしく、いろいろな話をしてくれました。
道外出身で噴火の経験など無い私は、おもしろい話だと思って聞いていまし
た。

 年度末の忙しい時、有珠山は噴火しました。
道路が封鎖され、JRも通れなくなりました。
航空会社は新千歳−函館線、丘珠−函館線を増便して、旅客需要の増加に対
応を始めそうでした。
被災地では避難生活も長期化の様相を呈しており、テレビでは連日報道合戦
が繰り広げられています。
私に何かできることはないだろうか。
今すぐ現地に入るべきではない。
かと言って、見過ごす事もできない。
幸いにも主人は航空会社に勤務していますので、正確な情報が早く入手でき
ます。
この臨時便情報を知らせることが出来たら、誰かの役に立てるかもしれない。
こうして、私の有珠山ネットとの関りが始まりました。

 「うすこい」は、身内の不幸が重なったために参加できませんでしたが、
インターネットを使った情報発信・収集の力と可能性を知りました。
阪神の震災の時は「0」からのスタートでしたが、有珠山はそうではありま
せん。
技術的にも人材的にも、格段に進歩しています。
毎日大量に流れる情報メールを読んでいて、いろいろな物事の考え方を学ぶ
ことができました。

 有珠山が鎮静化傾向を迎え、迂回して通っていたJRが復旧することにな
り、現地入りする機会に恵まれました。
車で通るR37は、まだあちこちで通行規制が敷かれ、街全体がすさんだ印
象を受けました。
生活臭が少なく、緊張感でいっぱいでした。
噴火する前は、こんな街並みではありませんでした。
避難所の看板、通行止めの標識。
警戒の為に走行するパトカー、復旧作業の為の自衛隊の車(千歳では珍しく
はないですが)。
高速道路の避難ゲート、線路上のGPS。
正直言って、車で走るのが恐かったと覚えています。
こんな中で本当に生活できるのだろうか、という目でしか見られませんでし
た。
私だったら3日と持たないと思いました。
でも、生活は営まれていました。
営まなくてはいけなかったのですね。

 営業再開をしたホテルに宿泊したのですが、楽しむお客様の笑顔とすぐ側
で噴煙を上げる有珠山は対象的で、どこか違和感を覚えました。
客室の押入れには防災ヘルメットが置かれてあり、ホテルのすぐ先は通行止
めのままでした。
わずか道路1本の差で、家に帰る事が出来る人、一時帰宅さえ許されない人。
目的地はすぐ目の前なのに、遠回り迂回をしなくてはたどり着けない場所。
幸いにも仕事がある人はいいけれど、仕事の見通しが立たない人もいるのだ。
この先、一体どうなっていくのだろう。

 避難所の中の有珠山ネット魔窟は、無人だと単なるマシンルームのように
見えました。
たとえ1人でも人が入ると、命を与えられたかのように途端に活気付きます。
魔窟に張り付いている人は、一体、いつ眠っているのだろう。
本業の仕事はどうなっているのだろう。
不特定多数の見知らぬ人の為に、ここまで真剣になれるなんて、なんてすご
い人なんだろう。

 避難所の掲示板に貼られた生活情報の紙。
自分が必要な情報を探し出すのに苦労する程の量です。
週間の献立表にカロリーや栄養成分表示があると良いな、と思いましたが、
口に出して意見できませんでした(陰では言いましたが)。
避難生活を余儀なくされていらっしゃる素顔の被災者の疲れ切った顔が、「
部外者」である私を冷たい視線で見ていました。

 うすゆめ仙台、ファイナル(Boo)では大変お世話になりました。
みなさま、本当にお疲れさまでした。
ありがとうございました。
何度この言葉を口に出しても、足りません。

 「うすゆめ仙台」で1日だけお手伝いをさせていただきました。
平塚七夕、安城七夕からのリレー短冊が重くなっていきます。
願い事を書いてくれた子供達、大人の方々。
ブースを出している事を知って、暑い中わざわざ寄り道をしてまで願い事を
書いて下さった方もいらっしゃいました。
うすゆめ直前の現場の画像を、食い入るように見ている方もいらっしゃいま
した。
どれほどの方が、有珠山に感心を示してくれたのか。
どれほどの方が、有珠山の復興を心から願ってくれたのか。

 ファイナル(Boo)では厨房(?)でお母様方に混じって手伝わせてい
ただきました。
何気ない主婦同士の会話の中に「生の声」を聞く事が出来、改めて自分の認
識の甘さを実感致しました。
避難所での炊き出しは、もっともっと大変だったと想像されます(当たり前
ですが、選挙事務所の食事作りとは規模が全然違うのにびっくりしました)。
それでも最初から最後まで、笑顔と笑い声が響く厨房でありました。
それは、復興に向けて未来が見え始めてきたということ。
喜ぶ子供達の笑顔が見たい、ということ。
楽しい厨房でありました。

 七夕リレーの短冊がファイヤーストームに投げ入れられ、空高く上って行
くシーンでは不覚にも涙をこぼしてしまいました。
全国から集まった1人1人のささやかな願い。
1人ではできないことでも、力を合わせれば可能になります。
必ずや、その願いが叶えられることと思います。
花火で遊ぶ子供達へ、たいちょーが発した「有珠山が噴火して良かったべ?」
という言葉が耳に残っております。

 噴火・避難生活と「ゆるくない」生活を余儀なくされている方々。
子供も少なからず心にダメージを受けていました。
まだ終わっていませんが、うすこい・うすゆめ(プロジェクトBoo)が、
少しでも心の傷を癒すことに繋がってくれれば、と思います。

 たいして役に立たない私でしたが、「おまー、帰れ!」とも言わず、あき
れずにスタッフに加えていただきましてありがとうございました。
車にうっすらと積もった火山灰が、「有珠はまだ終わらない」を実感させて
くれました。
この有珠山ネットに関ることが出来て、良かったと思います。
安穏な専業主婦生活をしていた私が、少し成長できたような気がします。
そして、「有珠山!」と言い残して車で疾走(失踪)する私を、文句一つ言
わずに送り出してくれた主人にも感謝しています。
たいちょーを始め、皆様方にはお世話になりました。
いろいろな方と触れ合う事ができて、世界が広がりました。
ある意味で「有珠山が噴火して良かった」とも言えるでしょう。
本当にありがとうございました。
有珠山ネットに関ったことは、私の心の一生の宝となることでしょう。

 プロジェクトBooが終了した5日後、たまたま伊達を通る用事がありま
したので、ちょっと寄り道をしました。
冨田たいちょーの家の前のヒマワリ(花新聞北海道からの情報)はまだ咲い
ていませんでしたが、ウッドデッキからアル君が相変わらず暑そうな顔を覗
かせていました。
Boo会場となった洞爺湖温泉小学校も、饗宴(狂宴)の痕跡も無く、翌日
からの新学期に向けて平静な姿で建っていました。
仮校舎ではありますが、間借では無い自分達の校舎での新学期。
きっと子供達の笑顔があふれる新学期となることでしょう。
うたかたの夢だったかもしれないファイナル。
午後の陽射しを浴びたグラウンドに、セミの声が響きます。
有珠山周辺では静かに復興が始まっています。



8/17洞爺湖温泉小学校 明日からは2学期が始まります


うたかたの夢の跡の洞爺湖温泉小学校グラウンド