P8200338.jpg (4582 バイト) 岩佐義人

両親は避難民
――有珠山ネットの「利用法」

実家の裏山が噴火した!!

よりによって国道の真横が噴火したときは驚いた。帰省の際、洞爺湖に行くときにいつも通る道の、あそこが噴火したということは、両親の家とは、2キロしか離れていない!!

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虻田高校前のバス停付近。
実家とは目と鼻の先。(豊浦町・工藤さん撮影)

3月31日、両親は長万部町の福祉センターに避難した。両親は身の回りのもの以外、ほとんど何も持ち出していなかった。聞けば保険証や預金通帳すら持っていない。現金は5万円ほど持ってきただけだという。
「食事は出るし、お金かからないから大丈夫だよ」
などとのんきなことを母はいう。カネはかからないといいながら、防寒用のセーターや敷物などで、すでに2万円近く使ったらしい。あわてて福祉センターあてに現金書留を送った。すぐに携帯電話も送った。避難所に無料電話はたくさんあったが、一度に多くの人が話すため、使いづらいらしいのだ。

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両親が最初に避難した長万部町の福祉センター。
ほどなく父は伊達市の日赤病院へ…。(長万部町・辰巳さん撮影)

カネとモノは送ったが、心配が消えたわけではない。父も母も高齢なのである。避難生活で体調を崩しはしないだろうか。軽度の障害をもつ父は、避難所で生活して行けるのだろうか。
毎日電話をかけ、健康状態を確かめた。
「元気だよ」と繰り返す母の声が、日を追って弱々しくなっていった。北海道と埼玉に離れて暮らしていると、声の変化には敏感になる。

母の体調がすぐれない理由は、父の存在だった。父は毎晩1〜2時間おきに起き出して身体に付けた器具の交換をしなければならない。父を起こし、器具の交換をする部屋を確保し、交換の手伝いをして食事の面倒をみるのは母である。ベッドさえあれば器具交換の必要はないのだが、混乱する避難所では個人の都合が優先されるはずもなかった。
「いっそこっち(埼玉)においで」
何度も誘ったが、たとえザコ寝の避難所暮らしでも、家の近くがよいという。
老夫婦で話し合った結果、父は伊達の日赤病院に入院することになった。父は日常生活には支障がないのだから、入院の必要はないのだが、母の健康を考えるとそれが一番よい方法と思われた。
父の入院を機に、母の健康は次第に回復した。しかし、虻田―伊達間の国道が通行止めのため、母は父の面会に行くことができない。結婚後50年にして初めて、両親は離れて暮らすことになった。

情報源としてだけでなく

有珠山が噴火する直前に、私は「有珠山噴火情報市民版」というホームページを発見した。ホームページは異様な迫力に満ちていた。そこには、新聞やテレビ、ラジオでは決して入手できない、地元に密着した情報があった。
母が長万部から伊達の福祉センターに移り、父と一緒に暮らせるようになると、「有珠山噴火情報市民版」はいよいよ貴重な情報源となった。なぜなら、仮設住宅や公営住宅への入居のタイミングを考える必要が生じたからである。
これは避難指示が解除される時期との兼ね合いで判断しなければならない。
ところが私の両親に限らず、避難所には判断のための材料があまり伝わっていなかったようである。さらに多くの情報を得るため、私は4月9日にメーリングリストへの登録を済ませた。同日届いたメールは75通、翌10日は128通のメールが届いた。

怒り、告発、報告、提案、議論、ゴミ(!?)、さまざまな情報を読んだとき、私は、自分の不純な目的に気が付いた。有珠山ネットの目的は「情報支援」にある。一方、私の目的は「情報入手」である。メーリングリストへの登録をもって有珠山ネットに参加したとするならば、私は正反対のベクトルを持った参加者ということになる。被災地から(だけではないが)発信される情報を、いかに虻田町出身者とはいえ、遠く離れた安全な場所から利用するだけの自分。

反省した。反省したが、利用価値の高い情報を捨てるのは惜しいので、退会手続きは取らなかった。

結局、両親は仮設住宅の抽選には洩れた。結局、実家のある虻田町高砂地区の避難指示が解除されたのは、5月24日のことだった。
このころから私はようやく一歩引いた視点が持てるようになったと思う。メーリングリストとの関わりでいえば、膨大な情報の中から自分の役に立ちそうなものを抽出するだけでなく、全体の流れを見るようになったというべきだろうか。
たとえば洞爺湖温泉街と虻田町の将来について考えるようになった。もちろん、メーリングリストの中で、虻田町のおよび腰の対応を知ったことによるのだが…。町づくりのグランドデザイン、総論を考える力はないが、各論にならば参加できるのではないかと思い始めたのである。

20年前なら、故郷の噴火災害に対して偽悪的な態度を取っただろう。10年前でも有珠山ネットに参加する精神的な余裕は持てなかったと思われる。その意味ではタイミングのよい噴火だったと言えるのかもしれない。

有珠山ネット隊長の冨田さんは、たびたび「噴火してよかった」という言葉を使う。これは地元に住む者だからこそ言える言葉であって、噴火災害の当事者ではない者が軽軽にうなずいてはいけないと思うのだが、しかし、2000年有珠山噴火は、私の故郷に対する意識を変えた。そのことは、まぎれもない事実である。

(2000年10月12日)