いまさら何だけど、この写真誰撮ったの?
ごとー@筆頭丁稚@かぽね@じむきょくちょ

138日を長いと思うか?短いと思うか?

 「138日」
 有珠山災害対策用MLから、usuzanMLへ、そしてUSU mainを読みつづけた日数である。

 メインのメーリングリストだけでも、8000通以上。
 サブのMLを含めると、23000通以上のメールが、ハードディスクに残っている。
 一部、PCのトラブルで失われたもの、削除したML登録・解除メールを含めると、もう少し数が増えるだろうが、その全てに目を通してきたのだと考えると恐ろしいものがある。1日平均166通以上。それと同時に、有珠山ネットHPのデータが、CD−ROM2枚分、自分のPCに入っている。関わった部分のみであるが、それでもこの量である。
 こうしてみると有珠山ネットは、情報の要塞であるといっても過言ではない。

 が

 この一見立派に見える要塞「有珠山ネット」だが、結構、突貫工事が多く、その補修作業に明け暮れていた気がする。
 何台のパソコンにWindows2000をインストールしたことだろうか(笑)それにたいちょーの無理難題。笑いが止まらないほどの画像量と、HTML製作。一晩でレポートを書くことも数知れず、時に睡眠時間を削っての朝帰りもなんども経験した。リンクは何度も改ざんの手が加えられ、挫折した。うすざん・きっずは構成でもめた。それに、うすこい、うすゆめ。(こちらはあまり関わりがなかったが)日に日に移り変わる情勢。増えていく画像、ページ、膨大なメールの処理。
 しかしながら、多くの人が関わり作り上げてきたこの要塞は、たとえ一部手抜き工事があったとしても、統制の取れた組織でもなく、明確な後ろ盾がある団体でもなく、全国的な組織でもなく、明確な指示や方向付けがあるわけでもない。それなのに、時には脱線しながらも「被災者のために」「これから起こるであろう災害のために」インターネットでできる一つの方向性を、世間に知らしめたものと思う。

 これらの作業の多くを、私は「巣窟」で行い、見てきました。

 4月5日に巣窟入りしてから、平日の夜と、週末(金〜日曜日)は、巣窟で暮らすことが多かった。
 何日、「巣窟」で暮らしたのだろう。
 何日、「セブンイレブンの弁当」を食べつづけたのだろう。
 何日、隣の部屋の「拍手会」を聞きながら愚痴ったことだろう。

 巣窟は、一人でいると結構むなしいのです。
 画面の向こうにメンバーがいるとわかっていても、やはり、あの部屋に一人でいるのは辛いことでした。隣から聞こえる拍手会が正直、「恨めしく」思ったこともあった。備え付けられたカップラーメンを一人ですすりつつ、「俺、何やってんだろう」と愚痴ったこともあった。夜中に工藤@豊浦さんが差し入れに来たことも、あった。(でもそのときはわからなかった)1号さんが1時ごろに巣窟にやってきたことも、あった。
 でも、なんとなく、孤独を感じていた頃がありました。
 その前の4月14日前後に、市川氏、松本@でっちっちが巣窟に居り、そのムードを経験したからゆえかもしれない。

 正直言えば、この頃が一番辛かった。時期的にはちょうど、きっずの構成で手間取りつつ、うすこいin西胆振の受け入れ調整を行っていた頃。誰も現地のことなんてわかっちゃいない。と思いつつあった頃。
 たいちょはこう言っていました。
「だから、うすこいをやるのだ。避難所に行って、1日パソコンの所に座っていれば、自然に聞こえてくる。被災地がわかる!」と。
 でも現実には、そんな甘くないだろう。と思ってた。
 そのための30人以上のスケジュール、車の台数の確認、タイムスケジュールなどをまとめ、連泊するために自分の仕事をこなしながら、ほんとに集まるのだろうか?と。それ以上に、ドタキャン連発なんてことになりゃしないだろうかと。正直、不安だった。

 だから、うすこいでみんなが集まったときはうれしかった。ほんとに来た。画面の向こう側のシトたちが。
 5月2日に、うすゆめin西胆振のために永田氏・原田氏、中川氏、農場長、ゆん氏が来た
 5月3日に、市川@鍋奉行氏を初め、10人が現地入り。途端ににぎやかになる巣窟
 5月4日、浅川氏、村松@教頭、1号氏を初めとした参加メンバーが揃う。足の踏み場もない巣窟。

5月4日の巣窟風景(夕方)
足の踏み場も無い。巣窟がもっとも輝いた日

 そして5月5日、うすこい実施。

 避難所に散ったメンバー。豊浦班は長万部まで走らせてゴメン。
 残ったおやびん、あらじゅんさん、1号さん。画像処理おつかれさまでした。おやびんのパソコン壊れるし。
 カルチャーセンターで、ネット中継に1日を費やした和田さん。工大生のみんな。お疲れ様。
 うすこいが終わって、たいちょ宅での打ち上げの中、それを遠巻きに見ていて。
 みんなバカだよなあ。。GWの金がかかる時にこんな田舎に来て。こんなとこまで、よく来てくれたよな。ただ大変なだけなのに、よく集まってくれたよな。そう思うと。泣けた。それまで感じていた孤独感というのはなんだったのだろう。
 別に集まったからといって、高尚な話をするわけでもなし、どこからか焼きそばと海産物を取り出す人もいるし、傍目から見たら単なるバカ騒ぎです。だけど、そうやって騒げることが、うれしかったのでし。

5月5日 8:00頃
出発前のミィーティングの風景
この時拍手会を行い、いままでの溜飲を下げた。
うすこいインターネット中継チーム
和田さんと、臨時できてくれた工大生達
炎天下の中走り回りました。
壊れたPC持って、記念写真 5月5日 打ち上げの風景
この風景は、忘れられない。

 数日経って巣窟に行ったときは、廃墟を見ているようでした。おごる平家も久しからず。というか。抜け殻というか。そんな感じが漂っておりました。

 SIDE1号機の横に1升瓶と清野さんの書置きが置いてありました。
 ゆん箱の中には、忘れ物の帽子が。
 大量のゴミと、名前の書かれた紙コップ。
 壁に貼られたままの「たいちょ宅」への地図
 床に貼り付けられたままのLANのケーブル
 机の上に放られた、PCカード

 みんな、ぎりぎりまでここに居て、慌てて帰ったのを立証するように、人が居た気配を残して、そのままあったのです。有珠山ネットの人間が、確かにここに居た証。なんかこみ上げましたね。

誰も居なくなった巣窟。
上の写真と見比べてください。

 わたしを見ているシトは信じられないだろうが、実は涙もろいのであります(大うそつき)
 特に「別れ」というのが大嫌いなのです。「死別」もいやです(誰でもそうか)
 とにかく「後に残される」というのが大っ嫌いなのです。
 昔、よく「居残り」させられたトラウマかもしれません。学校の先生がた。居残りは悪影響を与えますよー(^o^)
 ま、そーいう、けじめの無い性格なのであります。
 もし結婚することができて、連れ添いに先に逝かれたら、確実に後追いするタイプなのです

 と言っても、信用しねえだろうなあ。。。(T_T)

 そうそう。「よくできました」のシールも、ビニール袋に入って、壁に貼られたままでした。
 がんばれ!西胆振の丸いステッカーも少しだけ残っていました。
 これは、猫の手隊の二人が切ったもの。

 テレビを見ている最中に、これ切ってくれる?と頼んだら、「テレビが終わってから!」と一蹴されたのは有名な話です(^^;;)

 猫の手隊の二人は、巣窟に来た当初は怯えているようにも見えました。
 あまりのおじさんおばさん集団に、辟易していたのかもしれません。そりゃそうです。たいちょは怖い顔だし、おじさんがたはみんなパソコンに向かっているし。正直、おっかないところに連れてこられた。と思ったことでしょう。でも、半日で上記のように私達の上司になりました。あの年頃では、1日がわたしたちの1年にも相当するのかもしれません。

 うすゆめファイナルでは、人見知りもせず、一番子供達と近い距離で接したのは彼女達ではなかっただろうか。
 彼女達の日焼けの色が、それを暗黙のうちに語っています。

 だれよりも、「お助け隊員」であった彼女達の10年後が楽しみです。

左 5月の打ち上げのとき。
右 8月打ち合わせのとき。

4月で、こんなに変わると思いませんでした。
8月12日の写真で、2人揃った写真がないのが残念

※注 村松@おやびん@猫の手隊の親

とありますが、慣れすぎてしまって、二人は完全に別行動していたので、どうにもなりませんでした。
二人がそろったのは帰る間際だけかも。
下の方は、やっぱり温泉小の小2、3あたりと遊んでました。
上の方は、中学生や高校生のおねぇちゃんに、ついてまわったり、受付したりしてました。
で、わしが、「ちょっと、よ〜よ〜作り手伝えよ」と言うと、
「たいちょ〜に、受付にいるように、命令された」と言って、断られました。(i◇i)


と、思ってたのですが、1枚だけあったのです。(^o^)
それが、下の写真。
彼女たちの日焼けの色を見てください。

 さて、そろそろまとめを。
 振り返ってみれば、わたしが有珠山ネットで果たした役割とはなんだったのか?
 実のところ、特段技術が優れているわけでもない。技を持っているわけでもない。

 ただ、みんなより近くにいた「部外者」であったに過ぎない。正直言えば、コアメンバーと呼ばれることに違和感を覚えるときもある。

 業務で伊達の避難所を担当した時、3日間避難所で過ごし、いろいろな事を知った。
 室蘭の避難所も担当した。多くの人が過ごす避難所において、生活時間の違いから、ストレスが溜まっているのが容易に観察できた。
 毎日、同じような弁当を食べ、食傷気味であることを知った。
 帰りたい。帰れない。ジレンマの中で日々を過ごしていることを知った。
 わずかな付き合いを大事に思うほど、コミュニティが崩壊していることを知った。

 これらを、どれだけ伝えることができたのだろう?恐らく、10分の1も伝えることができなかったと思う。語彙に堪能であれば、伝えられたのだろうか?いや、それは違う。自分が被災者なら、もっと伝えられたのだろうか?それも違うと思う。
 結局は、一番中途半端だったのではないかと、思うのである。中途半端は、やっぱりいけません。(T_T)

 うすゆめコンサートの時に、「山に願いを」のバックに流れた、PowerPointの画像は、あまりに切なかった。
 4月の頭から、有珠山ネットが撮ってきた写真達。それがスライドで流された。写真は、文字以上に雄弁であった。
 見つめる人々は、その写真に写っている人たちだと思うと、余計切なかった。2月前は、こうだったのだと、平静に振り返ることが、彼らにできたであろうか?それを思うと、正視することはできなかった。わたしは、会場から外へ出ました。でも、自分は、被災者ではないのです。永遠に、彼らの気持ちを完全に理解できることは。ない。

 被災者でも、部外者でもない、そんな立場にいた自分は、一体何なのだろう。と思う。

 ただ「避難所がなくなるまで」は、見守って行きたいと思っている。
 「帰っていく場所」「帰っていく家」を無くし、思い出を失いながらも、人は強く生き、やがて今回のことを笑って話すだろう。「あんときはよお。おかだせんせーがよお。噴火するっていってよお。。」というように。
 それをどこかで聞いたとき、自分の中の有珠山が終わる。と思う。

 有珠山が繋いでくれた、人との絆。これは自分に取ってかけがえの無いものとなりました。
 避難して、家に戻り、または仮設に移ってからも、避難所の担当者とやり取りをする姿を見た
 たいちょが言っていた、「寄ってたかってなんとかする」姿を、目の前で見た。
 ネットワークは、人と人を結ぶものなのだと、あらためて思った。

 パソコンは道具に過ぎないけれど、それが結びつけてくれたつながりの全てに、ありがとうと言いたい。

 3月29日から、8月12日までの時間は、私自身にとって、とても長い138日でありました。
 「138日」これを長いというか、短いというか。それはわかりません。この間に、季節は流れ、冬から春へ、そして一気に夏が訪れました。
 北海道の4月は、いくら道南でも、まだ寒い時期でありました。有珠には残雪が残っていた。
 避難所はどんどん移り変わっていく。虻田から豊浦へ、そして長万部へ。伊達から、室蘭へ、登別へ。
 5月に入り、今度は避難解除が続く。避難所で言葉をまじ合わせた人達の多くは、元の家に、仮設住宅に戻っていく。
 6月、室蘭からは避難所が無くなった。カテゴリーという言葉が、一般化したのはこの頃。
 7月、yahooから有珠山の文字が消えた。三宅島が噴火した。

 そして、8月。

牧場のアイスクリームの駐車場に車が並ぶ わかさいも本舗もお客でいっぱい

 噴煙は、小さくなりました。人も、戻ってきている。
 洞爺湖温泉は営業を開始。道路は噴煙を見に来る人の車で、渋滞気味。
 噴火口周りには、木も生え始めた。

 有珠は、近い将来、緑萌ゆる山に戻っていく。
 多くの人が見守る中で。

平成12年8月16日
後藤基継