DSCF0053s.jpg (3370 バイト) 藤井@のうじょうちょ

「有珠山ネット」以前

冨田きよむとは腐れ縁で、話は噴火前に遡る。

僕が奉職している農業出版社、略称「農文協」で出している農家向けの月刊誌『現代農業』というので、冨田きよむが連載していたのだ。お題は「必ず儲かる農家のインターネット」というもので、なかなか気合の入った良い連載であった。

柱のひとつは、「農家こそがインターネットを正しく育てるコンテンツを持っているのだ!」というしごくまっとうな雄たけびなのだが、これが実は、災害情報の「目の先5メートルの大事」ということまで延々とつながっているのである。
一文字何バイトであるかとか、メールサーバとは何かなどといった、今考えるとなかなかトンデモナイものまでテーマにして書き殴ってもらっていたため、あまりにひどい間違いなどをすると、コンピュータを知らない読者が勘違いなどすると困るので、道を大きく踏み外さない程度に、ソコソコ校正などをしていたのだ。

「読んで元が取れる」を目標に冨田が気合を入れて書いた連載は、当然ながら大好評。丁寧で痒いところにも手が届くと評判で、連載終了後にはなんと「元気ネット」という読者ネットワークまで出来上がってしまったのだ。これが1999年の11月。

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元気ネットの会員は全国に散らばる。

ところが、どういうわけか、(ま、言葉遣いによるものかもしれないが)農文協のなかにも考えのひどく狭いものがいて、冨田きよむの良さをワカラナイものがおる。僕などが「冨田は良いから今後も書かせるべー」といっても、「それはまかりならん」のどうのこうの、ああだこうだと大喧嘩をしているうちに、ついに噴火してしまった、と、ま、そういうわけなのだ。

さて、なぜか強制加入させられた伊達「ローズネット」と、立ち上げから関わった「元気ネット」というま、ローカルかつ職業関係の濃ゆいMLに入って、あいかわらずの馬鹿話などをしていると、「噴火だぁー」となったのである。
はじめは冗談かとも思ったが、赤塚@サイエンスさんも書き出したので、これはやべー、と慌てた。廣池一号が他のMLに転送をはじめた。リンク希望の第一号はたしか、陸自北部方面隊からだったと記憶している。

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紳士淑女の社交場???Rosenet

いよいよPCを持って逃げる時、「ネットワークやってる人はみんな悪いシトだと思っていたけんどもが、中には良いシトもいるなぁ、俺感激しちゃったよ」と冨田から電話がきたので、よくよく聞いてみると、佐藤@室蘭教育委員会というシトがアカウントを出してくれると連絡してきたというのだ。
これが記念すべき「災害1番アカウント」なのだが、もちろん冨田は何のことやらわからない。「良くしてくれる」はわかる。でも、アカウントって何者なのかがワカラナイ。
コリコリのプロクシを通ると、かんじんのfarmersb.comはFTPしても見えない。これには参った。
メーラの設定。SMTPを室蘭に変更する。なかなかどうして、今までのネットワークを災害時に再構築するのは容易でない。ネットワークを新しく作るんじゃだめなんだ。今までのつながりが切れちゃだめ。今までのメールアドレスを使いつづけられないと、災害時には役立たない。PPPのアカウントと同時に災害時使い捨てのなんでも転送アリアリのSMTPを立ち上げるというのが今後は必要だと思ったりもする。

はじめは勝手に冨田のサイトをミラーリングしてた。ところが、廣池は3日間も手でミラーリングしていたのだ。それほど冨田のサイトを大切にしていた、廣池って本当にいいやつなんだ。

今だから言うけど、なんだか冨田が振り回されるような気がして、僕は「有珠山ML」には、入りもしないくせに敵意を持っていた。で、入ったとたんに、unsubscribeがどっと来たので、これ幸いと5分で抜けちゃって、あとで廣池に「なんで抜けた」としかられた。
いよいよ浅川さんとこに引っ越す話が出はじめて「有珠山ML」にもう一度入った。

入ったとき、浅川さんが冨田に「フレームに入れろ」とか「北海道のアイコンつけろ」とか無理難題を言っていたのが、新鮮だった。でも、「室蘭のSMTP勝手に使わせてもらえば?」みたいなことを浅川さんが言っていて、あ、この人いい人だなと思った。「今必要とされていて、技術的に可能なことなら、なんでもやってしまって良い」という柔らかな倫理観がとっても気に入った。

話は飛ぶが、あと、うれしかったのは、後藤君の登場。それまでは、寄ると触ると電話がかかって来たけれど、所詮電話は電話。遠くからのサポートには限界があった。「専従」!!うれしかったなぁー。本当にうれしかった。夜、隣部屋でのボラセンの拍手大会、冨田は歯軋りをして悔しい思いをしていた。僕も不甲斐なさに歯軋りをしていた。
小西さんが夜、設定に歩いていたのにも頭が下がる。待ちに待った「東方」豊浦からの第一報も小西さんからだったっけ。
ボーイスカウトも本当に良くやった。「はい、ボーイです。」というのが初期の巣窟のお返事だったのよ。
「むらさんと言う人がねー、パソコンくれるっていったー」。新品だって?誰だそりゃ。これにも驚いた。

幸いに、冨田は生き生きとしゃべり続け、走り続けている。これがとにかく、一番うれしい。

4月はじめ、いったい誰がBooの日が来ると、信じたか?

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8/12の様子
藤井さんと廣池さんが設置した竹で行われた流しそうめん
多くの笑顔が、ここにはあった。

いつか、三宅の大久保浜で、清漁や天神たちの太鼓を聞き、くさやを焼き、村上念願の花火をあげ、野田と夜の海に潜り、西野と酒を飲む時が、あるいは来るかもしれない。来ないかもしれない。
まだ、信じられない。三宅は、まだ、そんな時だ。

(2000年10月10日 府中市で、三宅村村議会が開かれた日に)